編集者から  続 2009.5. 9 「編集者から、同2、同3」を再編
このページには、読者の寄稿を掲載しています

編集者の言葉 (編集者から) へ

          ○ 目  次

大学生の地域貢献活動〜中越沖地震被災地で 田中 一行 氏
(明海大学総合研究センター 客員教授)
ビタミンK物語 長尾 大 氏
(神奈川県立こども医療センター 元所長・血液科部長)
ビタミンK物語追記 長尾 大 氏
( 上 掲 )

○ 千葉の大学生が中越沖地震被災地で住民支援の勤労を経験
    大学で教える友人が熱心に取り組んでいる学生の社会貢献(ボランティア)活動 〜 08年8月8日

 大学で教える友人が、大学の社会教育の一環として、学生の社会貢献(ボランティア)活動に熱心に取り組んでいます。 彼の研究課題の一つに「森林環境」があり、これとの関連で、被災地支援活動および住民の里山活動支援の実践を始めたのです。
 彼が信じるところでは、大学はその社会的使命を研究と教育だとする通念に留まることなく、直接の地域貢献、社会貢献をこの二つと共に掲げるべきで、かつ後者が研究・教育と繋がってこそ、均衡ある大学といえるのです。
 今回は、その教育活動(社会教育)としての実践活動のうち、被災地支援活動を取り上げます。彼の引率により被災地に出かけた学生たちが何をしたか、奉仕の勤労を通じて何を学んだかを、大学の広報誌に掲載された報告から本人の了解を得て、一部抜粋の形で掲載します。
 地域に飛び込む熱い心、炎天下の勤労に流れる汗を想像しながらお読みください。
大学生の地域貢献活動〜中越沖地震被災地で

雑誌「明海フロンティア」、2008年3月号からの抜粋
故田中角栄氏の出身地へ
 2007年の夏、中越地震被災地である長岡市の中山間地で、3年目となる明海大学の被災地支援活動を展開するかもしれなかった。
 そこに7月、中越沖地震が起った。同じ中越地域が3年のうちに2度、強い地震に見舞われたのである。安全確認を待って現地入りした。
 フィールドは、柏崎市に合併されたばかりの西山町である。アクセスが悪く、ボランティアの姿といっても、私たち8人が合流した東京のNGOの小グループだけである。故田中角栄氏の故郷だが、見捨てられた僻地という印象だった。
 3泊4日の活動は、毎日が炎天下だった。意外だったのは、半分の作業が里山の草刈りだったことである。二つの理由が考えられた。
 一つ:休耕もしくは放棄した田に集落の人が協力して里山風の植生を作り出そうとしてきた。アジサイや石楠花を植えるなど。そこに地震が来て、村人は共同作業どころではなくなってしまった。夏草や笹が生い茂る季節である。私たちの勤労は歓迎された。
 もう一つ:ここは地縁的な村落である。縁のない人を気安く招き入れるという習慣はない。外からの力を借りることを、恥とする感情も手伝っているのかとも思われた。
 もちろん、里山活動だけで終わったわけではない。寺の境内に広がる地割れに、裏山の崩れた土砂を投げ込んで「ヨイトマケ」よろしく地固めをしたり、90歳の老婦人を手伝って、半壊の蔵の片づけをしたりした。
ボランティアとは何か?
 私は、11月の連休に再度西山町に入った。授業の受講生3人を率いた。このときは、前回と同じ寺の障子張りと、2軒の民家の家具運搬を体験した。寺も、老婦人を手伝った蔵も、家具を運び出した民家も、すべて半壊の建物だった。寺は何本もの材木で斜めに支えられ、民家も屋根が破損してビニールシートが掛けられ、壁は落ちて家具が壊れていた。ビニールシートは、家といわず、地面といわず、川の土手といわずいたる所を覆っていた。
 作業といえば、地割れを補修する土木工事並みの作業、瓦礫の片付け、引越しの荷物運搬、障子の張替え、‥‥。学生にとっては、見ること、なすこと、すべて新しい。
 学生たちの感動がどれほどのものだったかは、かれらの感想や単位取得のために提出されたレポートを読むことで分かる。それらに接することは、じつは教師にとっても得難い感動を伴う体験なのである。
 炎天下の里山作業の後、草の匂いのする日陰で、作業をともにした集落の人びとが、冷えた缶ビールで「有難う」を言ってくれた。これは学生たちの感動を大きくした。ナスや大根や菜の漬物が、ご婦人たちの手で振舞われた。もちろん、それぞれ家庭の味である。
 彼岸を間近に控えていた寺では、自家製のボタ餅やお供えのお下がりでもてなされた。引越しを手伝った民家では、庭の柿を食べられないほど剥いてもらい、里山で採ったばかりのナメコが土産に出た。
 地域貢献活動は、それをボランティア活動と呼ぼうと呼ぶまいと、そのまま社会と人生の教室である。それは、マニュアルもインストラクターも存在しない生きた教室なのである。
田中 一行 氏
(明海大学総合研究センター 客員教授)

(080808追加)

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○ 乳児に発症し重い後遺症を残す疾病の予防に向けた対策が顕著な効果を挙げるまでの経過を紹介 〜 
    大学時代の友人から寄せられたお便り  04年10月26日

 下に紹介するのは、長年にわたり小児科領域の診療に携わった大学時代の友人から寄せられた、今は「稀有な疾患」となった重篤な乳児疾患の予防に向けた対策の歩みの記録です。
 新しい医学の知見が、実地の診療に取り入れられて、子どもの命を救い、後遺症の発生を防ぐに至るまでには、多くの人の努力が関わっているのが分かります。編集者は、慈雨が大地を潤し、生命を育む様相を連想しました。それにつけても、この医療の普及が中途で遅滞したことが惜しまれます。

☆ 07年12月に、追記が寄せられました。当初の寄稿の次に掲載します。

ビタミンK物語

04年10月26日
(07年12月7日一部訂正)

 つい先日、ある町立病院で生まれた新生児に脳内出血が起こり、生命はとりとめたが脳性麻痺の重い後遺症が残った、ということで裁判になり、 ビタミンKを予防投与しなかったという理由で、町が1億円を支払うことになった、と報道されていました。そのような時代になったのだな、と感慨深くこの記事を読みました。というのは、生まれたばかりの赤ちゃん全員にビタミンKのシロップを予防的に飲ませようと、長年に亘り努力したからです。
 「生後1〜2か月の母乳栄養児に頭蓋内出血で発症する」という臨床的特徴を持った『特発性乳児ビタミンK欠乏症』は、神奈川県立こども医療センターで発見され、ビタミンK欠乏症であることが立証されました。すなわち、1974年に血液科シニアレジデントの飯塚敦夫先生が5例をまとめて日本小児血液学会に報告したのが発端であります。特発性乳児ビタミンK欠乏症( Idiopathic vitamin K deficiency  in infancy )の病名は私が付けたものですが、生後1週以内に現れ古くから知られている、いわゆる新生児メレナと区別するためです。
 当時のこども医療センター小児科当直医は、乳児の痙攣などがあると、母乳栄養ですか?と聞くのが常識になっていました。けっして稀なものではないことが分かり、学会などで厚生省研究班を立ち上げて下さるようお願いしました。1980年になって、血液学と栄養学の大家である中山健太郎東邦大学小児科教授が厚生省研究班を組織されました。厚生省研究班の全国調査の結果、特発性乳児ビタミンK欠乏症は、年間推定400人発症し、母乳栄養児の1,700人に1人と計算されました。約90%は頭蓋内出血で発症し、約90%が完全母乳栄養児であり、約90%が生後15日〜60日に発症していました。頭蓋内出血例の約1/4は手術などで治癒しますが、1/4は死亡し、1/2は重い後遺症を残すことが分かりました。乳児の頭蓋内出血の原因の第1位に上げられ、それまで原因不明とされた頭蓋内出血の大部分がこの疾患によるものと考えられ、重症心身障害児施設入所者の7%がこの疾患によるものとの報告もありました。正常に発育するはずの母乳栄養児に突然頭蓋内出血が起こり、早期発見早期治療しても重い後遺症を残す、というあまりにも痛ましい疾患であることが分かり、予防の必要性が痛感されました。なぜ母乳栄養児の一部にだけ起こるのかは不明のままでしたが、とにかく予防すべきであると考えられました。
 どのように予防するか? 当時は、乳児期の筋肉注射による大腿四頭筋短縮症が問題となっており、小児科学会も筋肉注射を避けるように勧告していました。したがって我々は、成熟新生児全員に筋肉注射を行うことは避け、また全員から採血し検査することも避け、経口でビタミンKを予防投与することにしました。すなわち、未熟児は別扱いとして、「成熟新生児に、出生時・生後1週・生後1月の3回、経口的にビタミンKを2mgずつ投与する」という厚生省研究班案を1983年に提出しました。しかし、当時のビタミンKはK
1の粉末しかなく、粉末を新生児に飲ませるのは難しく、メーカーはビタミンK2を含むケイツーシロップ(1ml=2mg)を開発しました。1984年のことであります。
 これで、ビタミンKシロップの予防投与は全国に普及すると思ったのですが、ところがどっこい、感情的に反発する学者が現れ、浸透圧の高いシロップ投与で腸に穴が開く、と研究班や学会を撹乱しました。小児科学会が心配して調停に乗り出しましたが、「皆でよってたかって俺の口を封じようというのか」と逆にくってかかる始末。そこで、「では、我が国はどうすれば良いのですか?」と伺うと、それにはまったく返事がない。東京都で2万人の成熟新生児に投与しても何も問題がなかったと報告されても、100万人に投与すれば分からないとのたまう。いっぽう、1986年の全国的再調査では、頭蓋内出血の発生はまったく減っていないことが判りました。全国からは、小児科医や産科医がいったいどうすれば良いのだ、との声がしきりでした。そこで、班会議の席上、「科学的に完全に解決することができたことなど世の中には存在しない。ビタミンKの問題は、研究班の80%の医師が納得できれば、研究班の決定にすべきである」と主張し、厚生省研究班の「勧告」としたわけであります。実に、1987年のことであります。これで議論に終止符が打たれ、障害がなくなり、1987年には70%程度に止まっていた全国の予防投与率が一気に加速され、1993年には90%を超えていました。頭蓋内出血例もしだいに減少し、1990年には1/10となり、1993年にはほとんど見られなくなっていました。しかし、我々が警鐘を鳴らし始めてからすでに15年以上の年月が経過したことになります。幸いなことにその後も、ビタミンKシロップ投与に伴う副作用はまったく見られておりません。
 いっぽう、神奈川県では、神奈川県小児保健協会の「ビタミンK欠乏症予防対策委員会(委員長:長尾大)」を中心に1984年から産科・小児科が協力して調査を行い、対応策を検討し、予防策の普及に努めました。その結果、経口的予防投与率は26%からしだいに上昇し、1988年には90%を超えました。また、県下で年間平均5例、多いときで11例見られた頭蓋内出血も1990年には0例となりました。以後、0を続けています。2002年の調査でも、全国的にビタミンKの予防投与率は高く、特発性乳児ビタミンK欠乏症による頭蓋内出血は、「稀有なる疾患」として扱われています。冒頭の事件のように例外的な出来事になったようであります。大勢の方々の建設的なご努力により、不幸な乳児の頭蓋内出血がほとんどなくなったことを心から感謝しております。
長尾 大 氏
(神奈川県立こども医療センター 元所長・血液科部長)
ビタミンK物語追記

07年12月9日
 志賀直哉の長女も「特発性乳児ビタミンK欠乏症」であったのではないか、と教えて下さる方がありました。志賀直哉の自伝的小説である「和解」に12〜3頁に亘って詳しく書かれていますが、彼の長女慧子が生後56日目に、無熱で不機嫌・嘔吐・蒼白・痙攣が現れ、半日ほどの経過で亡くなっています。この疾患の概念が確立した現代から考えると、これが「特発性乳児ビタミンK欠乏症」による頭蓋内出血であることは、確実と思われます。元気だった初めての子が突然亡くなって、彼にもショックだったのでしょう。その記述は、症例報告に匹敵します。「和解」が出たのは1917年のことであり、記録に残った最初の例かも知れません。
 最近の新聞報道によると、我が国が発祥の地である母子健康手帳は、インドネシアなどのアジア諸国9カ国で採用されているそうですが、来年の洞爺湖サミットでは、この母子健康手帳を世界的に普及させることも提言するそうです。母子健康手帳には、ビタミンKの予防投与に関する記載欄があります。これが諸外国にも採用され、不幸な親子が激減することを期待しています(母子健康手帳の記載欄と上記の新聞記事を添付)。

(編集者注)
☆ 母子健康手帳
 「保護者の記録 (生後4週間まで)」のページの第5項目として、
 ○ 生まれて1か月頃にビタミンKが欠乏することがあります。
   ビタミンKの予防投与を受けましたか。 はい いいえ
 との記載欄がある。
☆ 新聞記事
 産経新聞、平成19年(2007)11月22日(木)付。
 見出しは、「洞爺湖サミット 政府 途上国支援の目玉」、「母子手帳、 国際標準に」とある。
長尾 大 氏
( 上 掲 )

(071230更新)

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