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楠公銅像


楠公銅像

 南北朝時代の南朝方の武将、楠正成の銅像である。首都東京の中心、皇居前の広場に立ち二重橋を見すえるその位置といい、かつて紙幣の意匠に用いられたその由緒といい、わが国でもっとも名高い銅像のひとつである。
 この銅像は、かつての財閥住友家の献納にかかる。すなわち、住友家が別子銅山を開いてから200年目に当たる明治23(1890)年、当主友忠が深く国恩に感謝し、同銅山の産銅を用いて楠正成の像を鋳造して国に献じようと志した。その意匠、製作等は委嘱により東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)が当たり、刻苦10年の歳月を費やして明治33(1900)年7月に完成を見たのである。
 委嘱を受けた東京美術学校の校長岡倉覚三は、像形をどのようにするかを協議の末、正成の生涯のうち最も会心の時機を選ぶことに決し、太平記に拠って、北條討伐後、正成が後醍醐帝を隠岐から兵庫に迎えたときの馬上の勇姿を表すことにした。時は元弘3年6月、正成は39歳。図案は募集により、学生岡倉秋水のものが選ばれた。
 当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型はみな木彫を使用した時代であったから、製作には木彫科主任教授高村光雲の下に教授石川光明、同山田鬼斎、教員後藤貞行等が当たった。正成の顔面は高村が担当した。伝わる多くの肖像は骨相をそれぞれ異にするのでこれを採らず、知略に勝れた勇将の相を表すことに重点を置いて面貌の彫刻を試みた。身体、甲冑、刀剣類は、石川の援助の下に山田が当たった。綿密な史実調査に拠り、また当時使用された武具を想定して史実を補充した。馬は、もっぱら後藤が担当した。巨大な馬像に取り組んだ彼の熱意は非常なものだった。騎馬術を学んだ専門の知識に加え、専門家の意見を聞き、また馬の屍体をもらい受け自宅で解剖したり、良馬を探り写真機を携え奥州を遍歴したりの刻苦力闘が伝えられている。原型製作中の木彫科はほとんど総動員で、明治26(1893)年3月ようやく完成をみた。同月21日にはこれを皇居に運び、天皇皇后両陛下のご覧に供した。
 いよいよ鋳造に取りかかることになったが、これを担当したのは助教授の岡崎雪声および同杉浦滝次郎であった。高さ4メートル、長さ5メートル余りと巨大で、かつ袖、太刀など付属品が多い像の鋳造は、丸鋳、あるいは下から一段ずつ鋳上げる登り鋳というわが国伝来の鋳造術では不可能であり、新しい鋳造法を考えなければならない。ちょうどこのとき、シカゴで世界博覧会が開かれ、各国から美術工芸の優良品が出品されるとの話があった。絶好の機会である。岡崎は、自費で渡米し博覧会場を見てまわった。大作も丸鋳に見え、ただ驚嘆のほかなかったが、博覧会が終わりに近づいたある朝、窓からさしこむ光線が照らす銅像を熟視すると分解鋳造であることが判った。彼は鋳造会社の工場に赴いて実際にその方法を調査し、勇躍帰国、即日鋳造に着手した。彼は馬を胴、首、4脚、尾の七つに分け鋳造し、かくして刻苦のすえこの難問題を解決した。
 これは、日本での分解鋳造法による銅像の第1号である。研磨、色つけ等の仕上げは丁寧を極め、兜、両袖、草摺、太刀等は鋳上げに手数を掛け、類例のない立派なものである。完成は、明治29(1896)年9月であった。
 銅像の下の台座は、高さ4メートル余、基礎を堅固に宮内省により造られた。
 住友銅山創業200年を祝った住友家当主友忠は、その年暮れに病没したが、彼の発願から10年を経て、志は達せられ楠公銅像は建立、献納された。時の当主は、友忠の後を嗣いだ妹婿の住友吉左右衛門友純であり、その名の銅板浮彫の記文(明治30(1897)年1月付)が台石にはめ込まれている。ちなみに、彼は徳大寺家の出で、のちの元老西園寺公望の実弟である。
                                                              

川波 重郎 

写真提供: 鈴木 裕之氏

資料 〜 この記述は、全面的に下記小冊子に準拠している。
  ☆ 木下道雄「楠公銅像製作由来記」 皇居外苑保存協会、昭和42年6月発行
  ☆ 上記刊行物末尾に掲げられた参考資料
    1.美術研究 第73号(昭和13年) 須賀利雄「楠公銅像製作の由来」
    2.住友春翠(昭和30年発行) 

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(071230追加、090509再編)